創業からのストーリー
創業者の貞末良雄が起業を決意したきっかけは、「日本人の男性をおしゃれにするという私の意志を引き継いでくれる人はいないのかね」というある人物からのひと言だった。その人物とは、1960年代、70年代にアメリカのアイビースタイルを日本に紹介し、一世を風靡したヴァンヂャケット創業者の故・石津謙介氏だ。良雄は、ヴァンヂャケット勤務時代からの恩師である石津氏に、「それでは、私がシャツ屋をやります」と即答。その時、すでに53歳だったが、長年、密かにあたためていた事業構想があった。それは既存のビジネスモデルを覆す、上質で納得価格のシャツ専門店だった。
男性のおしゃれに欠かせないアイテムがシャツ。中間コストを徹底して削減し、最高品質のメードインジャパンのシャツを納得価格で販売すれば、品質を見極めるお客様に必ず受け入れられるに違いないという確信があった。そして、衣料品店を営んでいた良雄の父・貞末慶一の「商人は、お客様に喜んでもらって初めて、その分け前をいただける。人のために身を粉にして働いて生計を立てるものである」という教えに従い、商人として商いの正道、すなわち「商人道」を貫くことを心に誓った。
こうして、1993年11月7日、鎌倉の目抜き通りから外れたコンビニエンスストアの2階に、わずか14.5坪の質素な店がひっそりと産声を上げた。人を雇えるお金はない。夫婦二人三脚で、良雄が裏方で生産管理を担い、店は接客上手な妻のタミ子が切り盛りすることに。モットーは「世界で活躍するビジネスパーソンをシャツで応援する」。いつかは、世界に通用するシャツブランドとなる日を夢見て
開店したものの人目につかない辺鄙な場所だ。客足は一向に伸びなかった。だが、雑誌「ハナコ」の鎌倉特集で店が掲載されると、それが起爆剤となり、お客様は順調に増え始めた。そして1995年7月、横浜ランドマークに初の支店をオープンさせ、創業から3年後の1996年11月には、コンビニ2階の鎌倉本店を約3倍の広さの現在の場所へ移転した。続いて自由が丘や渋谷など東京の人気スポットへの出店が相次ぐとともに、業界に先駆けてオンラインストアも開設した。
ビジネスが軌道に乗った良雄の次なる目標は、丸の内・丸ビルに出店することだった。それは、「丸ビルに店を出せたら商人として一流だ」と語っていた父・慶一の念願でもあった。日本全国から人々が集まる東京駅前の丸ビル内に店を持つ宣伝効果やメリットは計り知れない。そのために、あらゆる可能性を模索し、努力し続けた。その甲斐あり、2002年9月に新しく開業した丸ビルの地下1階への出店が叶った。丸ビル店でシャツを買った後は、オンラインストアでも購入してもらえる好循環が生まれ、丸ビル出店によって東京を訪れる全国の人々がお客様となっていった。
丸ビル出店以降、お客様の口コミと相まって、テレビなどさまざまなメディアで大きく取り上げられる機会が増えた。なかでも、2009年12月に放送されたテレビ東京「カンブリア宮殿」のインパクトは大きく、商品は全て売り切れ、新たなお客様はリピーターとなった。その後の会社の売上規模は2倍となり、次のステップへの飛躍を促した。
世界に通用するシャツ。それには、ビジネスメンズウェアの聖地・ニューヨークで認められる必要がある。創業の時から良雄は、いつの日か、その地で勝負したいと夢見ていた。日本の名前を冠した日本ブランドとして挑戦し、日本の繊維業が世界で戦えることを証明したかった。2008年5月から出店調査を開始。候補地のマディソン街のテナント料は想像を絶するほど高額だったが、同年9月にリーマンショックが起きると空き物件が出てきた。そして2012年に入り、理想的な物件に巡り合う。しかし、ビルオーナーからは「日本人がシャツ屋をニューヨークに? アメリカ人が寿司屋を銀座に出すのと同じだ」と断られてしまう。この窮地を救ったのは、『The IVY LOOK』の著者で日本のアイビーにも詳しいイギリス人のグレアム・マーシュ氏だった。シャツの品質と鎌倉シャツのヴィジョンを理解したマーシュ氏がビルオーナーへ推薦状を書いてくれた。それが功を奏して交渉は進展した。
それから、約半年後の2012年10月30日、ついにニューヨーク店「Kamakura Shirts」がマディソンアベニュー400にオープンした。その前年、東日本大震災で東北の縫製工場が被災し、大打撃を受けていた。創業時から縫製工場に支えられて鎌倉シャツはある。共に手を携え、震災の難局を乗り越えた上でのニューヨーク進出だった。
高品質な日本製のシャツは、ニューヨークでも瞬く間に評判となり、口コミをベースに現地のお客様の支持が拡大していった。そして、ニューヨーク出店から5年後の2017年、春の褒章にて良雄が藍綬褒章を受章した。高品質なシャツを手頃な価格で提供し、日本の繊維業界の発展に寄与したことが受章の理由だった。
2019年9月、米国版『GQ』の特集記事「ベスト白シャツ」にて、欧米の名だたるブランドのシャツを押さえて、「Kamakura Shirts」がトップに掲載された。彼の地で、日本のブランドが世界のブランドとなった証だろう。2013年春には海外向けのグローバルオンラインストアを開設。以来、世界中のお客様へ商品を届けてきた。その数は6年間で84カ国に上る。ニューヨークをはじめ海外での評価を携え、次に向かった大舞台は中国大陸だ。さらなるグローバル展開のためには巨大なマーケットである中国進出が欠かせない。2019年11月7日、創業26周年記念日に上海の「静安ケリーセンター」内に、中国初の店舗を開店した。
順風満帆に事業が進展する一方で、創業者夫妻の生活は公私共に激変していた。2018年8月、妻でありビジネスパートナーのタミ子が病に倒れ、良雄は仕事と介護に追われる日々が続いていた。約1年半、休むことなくタミ子の介護に当たるが、やがて自身も体調を崩し、入院を余儀なくされてしまう。79歳の良雄は、自らの代表権を、20年以上一緒に働いてきた長女の貞末奈名子に譲り、経営の全てを託すことにした。2020年1月末のことである。
両親から実質的に事業を引き継いだ奈名子だが、ほどなくして新型コロナウイルスが猛威を振るう。就任早々に創業以来の未曾有の事態に直面することになる。緊急事態宣言下では全店が営業停止となった。難しい舵取りを迫られるなか、奈名子の行動は素早かった。2020年3月には「シャツ屋が作るマスク」を企画立案し、チャットでのウェブ接客サービスを導入するなど、全社一丸となって柔軟に対応した。4月からウェブ上で受注販売をスタートしたマスクは6日間で約50万枚を売り上げた。国内の縫製工場だからこそ、シャツの生産をマスクに切り替えて迅速に対処することができた。奈名子は、「お客様が今、必要としている商品を提供したい。縫製工場へ少しでも仕事を発注したい」という一心だった。
コロナ禍の対応に追われながらも「ピンチをチャンスに」の精神で、創業来の製販一体の仕組みの強化や新たな施策に次々と着手した。その一つが、発祥の地・鎌倉への回帰である。鎌倉の企業として地域に根ざした取り組みをより深化させ、鎌倉発の商品開発を推進。鎌倉での活動をリードし奈名子を支えているのが、良雄の次男で副社長の貞末哲兵だ。建長寺や円覚寺、浄智寺など地元の名刹の協力を得て製作した「作務衣」は好評を博し、定番アイテムとなった。
コロナの試練は、奈名子や哲兵をはじめ全スタッフの絆を強め、成長を促した。激動の3年間を経て、2023年からはアクセル全開で反転攻勢をかける。3月に開業した「東京ミッドタウン八重洲」内への出店に続き、6月に仙台、9月には札幌に店舗がオープンした。そして、ニューヨークへの再上陸の準備を着々と進めている。コロナ禍で、奈名子は苦渋の決断をしていた。ニューヨークからの撤退だ。ニューヨーク店も営業ができない日々が続き、会社を守るためには致し方ない選択だった。良雄の悲願であり、自らも開店準備から主導してきた店を2020年末にクローズした。とはいえ、8年間、ニューヨークで灯した火は消えることなく引き継がれている。現地で築いたお客様は、今も顧客として「Kamakura Shirts」を支持し買い続けてくれているからだ。
2023年10月、奈名子は再びニューヨークへと飛び立った。世界に通用するシャツブランドの頂きへ。鎌倉シャツのあくなき挑戦は続く。
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